マダムEIKOのカンタービレ

 

            バッハに魅了され

                          大沢 栄子

 ロ短調の15番、16番とやってきて、私はますますバッハに魅了されています。“面白すぎ”というのが適当でないとすれば“興味深々”というところです。

 第2部の中心、信条の中のいちばん大事な箇所に、バッハは思いを表現するために一見不思議とも思える深い技法を用いたと思われるからです。

 15番 Et incarnatus est de spiritu Sancto ex Maria virgine “聖霊により神は肉の形をとり、処女マリアから生まれた”。オーケストラはひたすら十字架音形(音符を線でつないで重ねると現れる)を繰り返し、またその中にため息のモチーフ(♪♪)を入れ、この御子の生まれた意味を暗示します。合唱も、メサイアの喜ばしい誕生の表現とは異なり、下降形のテーマでin carnatus estと、天から地上に降りてこれらた神の子の神秘的な現象を歌います。そしてet homo factus est “人間となられた”の部分は3度の上向で少し明るい形が続き、最後は長3和音で終止、これは当時の習慣でもありました。

 16番はいよいよ受難、十字架の描写ですが、作曲法でいえばパッサカリア(低音部に全く同じ形を繰り返し、その上の旋律をさまざまに変えて載せて行く手法)です。この曲の場合13回繰り返され、13という数字にもバッハの意図が隠されます。低音部の半音ずつ下がって行く足取りに合唱の各声部が重苦しく息切れするように、動きの少ない旋律を次々に歌って行くのが、まるで十字架を見ていた群衆が口々に呟いている、しかもそれがpro nobis “私たちの(罪を)負って”という信仰の根幹の表現であることを思わせられます。その結果 sepultus est “葬られた”と、最後は沈痛な半音下降形で終わりますが、ここも長3和音。ピカルディ終止。

 ところが17番、復活の爆発的な喜びがいきなり出てくるところが効果的。弾むリズム、3連符の躍動感。

 まだまだあるバッハの手法の素晴らしさ。「難しいナ」ばかりでなく、「すごい!楽しい!」と味わいながら歌いたいものです。

 
           歌詞に込める思い

                             大沢 栄子

 私が大事にしている言葉に「歌は語りなさい。ピアノは歌いなさい。」がある。音だけで音楽を作るピアノでは、その音楽が何を表そうとするのか、自分の感じ取ったものを音の流れに込めて、指と心で歌わねば音の羅列になってしまう。一方、歌はただ歌詞を発音するのではない。歌詞の内容を語り、自分をそこに投影し表現することが大切なのだ。

 英語やドイツ語の歌詞はどうだろう。対訳で意味を掴んでも、それだけで表現できるか、自分のものにするにはどうしたら良いだろうか。

 「平和への道程」の中で、特に曲の中心に位置する第8曲「Angry Flames」は、日本が体験したものであり、大切に歌いたいと思う。峠三吉の原爆詩集の中から“炎”が英訳されているが、対訳には峠三吉さんに敬意をもって、元の詩をそのまま当てた。しかし原詩の表現にはかなり難解な部分もあり、これを翻訳するには、日本語について相当深い理解が必要だと思われる。カール・ジェンキンスは彼のミサ曲にも日本の俳句を取り入れているほどだから、多分日本語に理解が深い人なのだと思うが、私は逆に、この英訳を自分の言葉に再翻訳してみて、たった46小節を歌う合唱に心を込めたいと思った。

              噴煙は迸り出て雲の上に覆いかぶさり

              世界は薄闇に包まれた

              空のドームは破れ きのこ雲が死者を包む

              黒く 赤く 蒼く 炎は空中を舞い  溶け合う

           火花がキラキラ散って 塔のように立ち昇り  街全部を焼き尽くす

           まるで海中の藻が揺れるように 炎の塊が進む

              煙の中から 渦巻く炎の中にのろのろと入っていく無数の人々

              立つことができず  四足だ

           みな猛火の灼熱に呑み込まれていく

              髪をかきむしり 向かっていく先は 硬直の  死だ

           そこには 呪いが燻っている

 自分の言葉になれば、語れるかも知れない。ほかの曲もそうだろうと思う。今後ももっと模索していきたいと思っている。

  演奏会の臨場感と 録音録画の音楽

大沢 栄子

 もともと私は、録音録画のものに重要性をあまり感じていなかった。「演奏を聴くのはナマでないと。演奏者と聴衆とがその1回限りの音楽を同じ時間の中で共有するところに大切な意義がある。時間と共に消えていく運命を持つ音楽に、演奏者が魂を込める、それは美しいこと、かけがえのないことだ。」

この考えを間違っているとは思わないし、それを捨てた訳ではない。そんな事を言いながら、CDだって“勉強のために”たくさん持っている私の生意気な考え。ナマの演奏会にいつもいつも足を運べるわけではないから!

ところが、それを覆すような経験をした。録音・録画の良さ、大切さを別の面から痛感したのだ。私たちの「マタイ受難曲演奏会」のDVDをとても良い環境で聴くことができた。

音響は、わが家の小さな、勉強用にしか役に立たないようなスピーカーでは良さを感じることは到底できない。それに、ステージの上では、自分の周囲から声やオケが聞こえるだけだから、客席でどう聞こえたかは判らず、演奏の良しあしは判断できない。

けれども、多分ホールの響きなども充分拾って、演奏会の雰囲気を肌で感じられるような優秀な録音と優秀な再生によれば、自分も聴衆になれた。マイクやカメラによって、ソリストの声や表情、楽器の演奏法(今回は弦楽器は殆どがノン・ビブラートのピリオド奏法だったことがハッキリ見えた)、ソロ楽器の奏法などを、ホールよりも集中的に聴くことが出来、カメラワークのお蔭と思いつつ演奏を堪能できた。まさに“ブラヴォー”のDVD演奏会!

 

ちょうど34月に、私がオプションで視聴しているケーブルTVのクラシカジャパンでは、マタイ受難曲が何度も流れていた。それは、バッハがふた手に分けて作曲した意味を表現し、曲の特性を出そうと、2重合唱のやりとりでは両者が向き合い、そうでないコラールなどはステージに並び、オケも同様で、明らかに映像のために細切れで録画したと判るものだった。曲は連続して流れているし、一流オケと合唱の演奏であっても、2重であることを示すためにことさら演出された映像で、明らかにウソくさいと私はうんざりしていた。

それに比し、私たちのDVDから聴き取れるバッハの神髄。録音・録画も良いものだと、私は認識を新たにした次第です。

 

 「平和への道程」チラシができるまで


「今回の曲は一般にはあまり馴染みがないので、少し長い紹介を」と

公演準備委員長の遠藤さんに頼まれていた。《そうです、最初のことばが大切》 私は結構長い期間考えて、先日書いたように『戦後70年というこの年に、私たちは“平和への道程”を歌うことになった』というフレーズに決めた。そして、この曲が発表されるや、いかにあらゆるジャンルで受け入れられ人気を得たかという、《えー、そうなの》と思ってもらえるような情報や、曲が作られたいきさつなど、出来るだけ興味を引くような情報を盛り込んで、いつものチラシの1.5倍ほどの字数で書き上げた。

 

「明日、印刷会社と打ち合わせです」と連絡を頂いた。次の日、印刷担当?のBの飯田さんから、「何かキャッチフレーズを題名“平和への道程”の下に入れたいということになった」との話。《もっともっとアピールね》と思って考えたけれど、私の中ではもう完結していて、いくつかの単語をひねり出してみても、うまく繋がっていかない。飯田さんに訴えると「例えば○○○とか」と秀逸なフレーズが出た。(私は感動して聞いたのに、そのフレーズを忘れた!)それっきり助け船は来ない。私は《博報堂ならきっと何人もでアイディアを出し合うだろうに》と愚痴を言いながら、遂に原稿そのものを書き換えた。それを送ると今度は「前回の原稿の方が良いよ」という反応。いくつかのアドヴァイスをもらって最初の原稿を手直し。最後に飯田さんが“取って置きの”キャッチフレーズを出してくださった。

 最終稿を送った次の朝、起きてパソコンを開くと遠藤委員長から「今回の演奏会の成否は、このチラシにかかっています。ご苦労さまでした」というメールが入っていて「えーっ!すごいプレッシャー!」と思わず返してしまった。もちろんお客さまを呼べるかということだけど。

 

 デザインもとても大切。これからデザインが決まり、チラシが出来るだろう。公演準備委員の方たちは何も言われないけれど、こんな過程を経てチラシはできる。「チラシ完成の暁には、ぜひ活用してください」と、私からもお願いです。

 
         「“平和への道程”への興味」      

  大沢 栄子

 「平和の道程(みちのり)」の練習が始まった。いきなり第1曲は、フランスの多分ルネサンス期に生まれた世俗歌謡と言われている曲から始まる。ジェンキンスは8分の12拍子で書いているが、古い歌だから、もとは4分の3の、もう少しゆっくりした歌だ。邦訳を借りると、「男よ、男よ、武装した男よ。武装した男に気をつけろ。みんなそこらじゅうで叫んでいる。みな武装せよと、はがねの鎧で。」とある。

 ジェンキンスの曲は「平和への道程」だから、導入にこのようなテキストの歌が転用されるのは考えられないことではないが、そのような意味だけでなく、この歌は従来40以上もの曲に使用されてきたという。

 何故か。それはこの旋律の輪郭がとてもはっきりしており、カノンやフーガのテーマとして扱いやすいからだという。でもそれだけだろうか。パレストリーナに「武装した人」というミサが4曲もあったり、デュファイにもあると知って驚く。残念ながら私のCDコレクションには当該の曲は入っていないが、聴いてみたいものだと思っている。

 更に、この曲の起源は第4次十字軍の侵略によってコンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡した時期に当たるらしく、そう知ってようやく、この歌が“平和”や“ミサ”のテーマとして用いられる意味を納得できる気がした。平和を希求し、戦争の犠牲者を悼む思いを込めつつ歌われていたのだろう。

 

 「マタイ受難曲」ではバッハが8曲のコラール旋律を取り入れ駆使して、時代的に人的に3層構造を素晴らしく創り上げたが、同様に、カール・ジェンキンスもまた、さまざまな時代の詩人の思いを練り込んで創り上げたこの「平和への道程」。ひとつひとつのテキストに当たっていくと“なんて面白いんだろう!”と、(曲より何より)私はワクワクしてくる。

 

私の「マタイ受難曲」物語(4)

先日、資料研から出た青柳さんの「バッハの数のレトリック」は、14または44、そして37などに関するバッハの修辞法でした。

 

バッハの“ここまでやるか”という綿密な数合わせですが、その当時はバッハ家のような音楽一家の遊びは、誰かが出した短いモティーフを題材にして皆でカノンを歌ったり、そのモティーフを上下ひっくり返したり後ろから歌って合わせたりと、私たちから見ると何と高級な遊び!に思えるものだったのですから、遊びでない作曲の中にも、さまざまな自分なりの情報を書き込むことは得意とするところだったでしょう。

 

ではマタイの音楽上では、どんなレトリックが使われ、受難の状景を表しているでしょうか。これまで、たくさんの学者などが、音の動きから、あるいは楽譜の形から、バッハの意図したことを推測しています。

 

物語(2)で第1曲について、♩♪♩♪と刻むリズムは、イエスが十字架を負ってゴルゴタに向かう重い足取りの伏線と書きました。下降形のふたつの♪♪をスラーで結ぶ形は“涙(tränen)”や“悲しみ(trauer)”を表す常套形で、マタイの中では“休み(ruhe)音形としても使われ、前の音に重さを置いて演奏するのが、声でもピアノでも弦でも当然とされる表現方法です。

 

3番でMissetaten(悪事)のバスに長い下降形がつけられているのを、内容表現とする学者あり、20番で「羊の群れは散らされるだろう」というイエスの言葉の背景の、激しく上下を繰り返す和音も「散らされる」表現と書く学者がいます。同じような和音でも、下降形の続く28番はイエスが祈るために膝まづく様子だと。またシャープは“十字架”や“傷”を暗示し、♭が沢山付けられるに従って“非劇的要素”が増すと書いているものもあります。

 

 

そのようなことを考えながら、私たちが歌う部分だけでなく、歌詞に沿ってCDの全体を聴いたり楽譜を眺めたりすると、バッハの音が描き出す状景がより一層見えて来て、「うーん、さーすがー!」と唸ってしまうのです。自分なりのレトリックを見出すこともできるかも知れません。

リリンクと畏友・松原氏による「マタイの解釈と演奏」

     大沢 栄子

ヘルムート・リリンクは今80歳、近年まで合唱指揮・教会音楽家として現役であった。かつて日本を訪れたときに、その演奏に共鳴した友・松原茂氏はリリンクの活動の地シュトゥットガルトに渡り、彼のもとで研鑽を積みながら過ごした。

 

 松原は帰国の後、リリンクの「マタイ受難曲―解釈と演奏」などを翻訳し、リリンクが克明に記した演奏法を伝えてくれた。

指揮者はオケや合唱の現場で自身の考えを伝えるであろうけれども、こうして書いて残すことは殆どないだろう。その意味で、これは一人の音楽家の解釈ではあるが、貴重な参考書だと思う。リリンクが教育者であったしるしでもある。

 

 最近読み返している。感じるのは、マタイによる福音書の解釈の深さ、それを音楽で表現するための細やかな手法。そして、ドイツのネイティヴの合唱団に向かって、「この発音をはっきり」とか「これが大事なことば」、「こういう気持ちで歌うべき」と指示をしていること。日本人の私たちはドイツ人の合唱団以上に、それらに耳を傾けねばならないだろう、ということ。

 

 優れたこの著書の翻訳を世に遺して、松原は50歳で病のため天国に旅立った。オルガン科の彼が私たちのクラスのドイツ語の授業にひとり参入してきたとき、教授の質問にトンチンカンな答えをして笑われたことを思い出す。その彼がリリンクのもとで助手を務め、ドイツ語の貴重な翻訳書を立派に遺してくれた。

 

 マタイ受難曲は本当に中味が濃い。オケも合唱も、音のひとつひとつに意味があるというほど、解釈が大切になる。

 

私はますます気持ちを引き締めて、マタイ受難曲の演奏に向かっていきたいと思っている。

 

 

 

マタイ受難曲のコラールの終止

                                                  大沢 栄子

 マタイの練習がコラールから始まっています。

コラールについて既にイメージを持っておられる方は別として、「普通の合唱のハーモニーの感じとかなり違うな」という印象を持った方があります。周囲の音に合わせて音取りについて行かれたことでしょう。

 歴史的に見て、コラールの素地になったドイツの民謡は“教会旋法”の時代のものですから、コラールは長調短調の世界で簡単に割り切れないものがあります。その一つがコラールの終止です。

いずれのコラールも、短調のコラールであっても、最後の終止だけは長3和音で終わっています。この終わり方の伝統的な受け留めについて書いてみます。

 

 

  曲の最後の落ち着いた気持ちはどこから得られるでしょうか。どんなハーモニーが、その感じを与えるのでしょうか。

ずーっと曲が続いてきて最後なら、オクターブの終止は落ち着くでしょう。この音の振動比は12で、完全に融け合います。ピアノなどの鍵盤楽器は音を動かすことができませんから、オクターブの単純比は作られていますが、その他は1221という平均率で、単純比は難しい。弦楽器や声ならその微調整が出来る筈です。

純正調で完全5度は23です。では合唱がドとソで終わったとします。単純比ですが、これは大変落ち着きのない感じです。何か足りない。そうです、それまでの経過があったとしても、調性がはっきりしない終わり方。そこでドとソの間にミを入れる。C-Eの振動比は45、これがC-Esだと56になります。振動比は単純なほど耳に心地よい落ち着きを与えます。そこで古くから長3度のほうが短3度よりも最後のハーモニーとして用いられ、短調の曲であっても長3和音で終わる習慣ができました。短3和音で終わる曲は近代いくらでもありますが、昔の人の音感の良さと音楽を受け取る感覚を感じさせられます。

 

 こうしてマタイのコラールはすべて長3和音で終わっていますが、曲のいちばん最後の美しい合唱曲、“Wir  setzen  uns  mit  Tränen  nieder”(私は涙ながらにひざまずき)が、短3和音で終わっているのが印象的です。

 

 

暗譜について

                             大沢 栄子

練習やその他の仕事も次々迫ってくる中で、暗譜公演が決定した。

 シューベルトのこの曲の暗譜のポイントは、Gloriaの最後のCum  Sancto  Spirituのフーガと、Credoのテキストの2点だろう。

 Credoはミサや礼拝の中で、信仰の内容をひとつひとつ言葉に出して確認するものなので、フーガのように同じことばの繰り返しがなく、ことばをひたすら覚えることに尽きる。

 ところがCum  Sancto  Spiritu のテキストは1行のみの簡単なものだが、同じような音型や入り方が、ひとつ間違うと全く違う展開になっていく危険性があり、これが難しさではないだろうか。

 暗譜でいつも思い出すのは故・岩城宏之さんがある本に書かれていたエピソードである。指揮者の方たちは楽譜を読み込むことに専念する。オーケストラの場合は沢山の楽器が32段なんていう楽譜で横に書いてあるので1ページが1段、数小節がどんどん進んでいく。「ここでチェロが入り、ティンパニーが・・・」と。指揮者が暗譜しているとは限らないが、トスカニーニは目が悪くて数10センチ離れた譜面台の楽譜が見えないので暗譜したのだそうだ。ルービンシュタインは楽譜を眼の中にフォト・コピーすると岩城さんに話したという。

私はこの暗譜法が気に入っている。楽譜をひたすら眺めながら歌ったりCDを聴いたりする。すると、このフレーズは楽譜のこのあたり、下の段でこう歌ってページをめくるとこれが出てくる。次のページに移ると今度は2小節休んで次がこれ。歌っていて頭の中でページをめくっている。「同じような動きだが、次の音が下がるのはこのページに移る時」とインプットできる。

でも、岩城さんの失敗談が面白い。メルボルン交響楽団の首席指揮者だったときのこと。完全に暗譜していて、もう何十回も振っているストラビンスキーの「春の祭典」で、うっかり頭の中のページを2ページめくってしまったそうだ。オケが違う音を出しているのに気付いたときは既に遅し。あわててページを先に進めようにも取り返しが付かなくなって、聴衆にゴメンナサイをしてやり直したという。

危ない危ない。そんな事になりかねないあやふやな私の暗譜から早く脱却しなければと自戒しながら、暗譜に力を入れているきょうこの頃である。

 

 

  ヴェルレクが生まれた事情

大沢 栄子

 オペラ作家の作曲したレクイエム。「何と劇的な!これが宗教音楽か」という評論家の非難を浴びつつ、しかし一般聴衆の絶大な拍手喝采を受けて、教会初演のあと劇場に場所を移し、3日間の連続公演。その後、パリなど各地で演奏され、現在に至るまで人気のレクイエム。


  だがこの曲の作られた発端は、ご存知のようにヴェルディが大先輩ロッシーニの逝去を悼み、敬意を表するためにヴェルディの発案で13人の作曲家が1曲ずつ担当したレクイエムにあった。この「ロッシーニのためのミサ」の公演はさまざまな事情で挫折し、演奏されずに終わった。その事情とは、“13人は無料で作曲し、出演者も無料で、しかも必要な費用を出し合って”という条件だったが、ヴェルディの意向を受けた企画委員会の熱意が足りず、劇場側との話がうまくいかなくなったこと、また、そもそも作曲に当たって親友であった指揮者が、“13曲の作曲をくじ引きに”と言いだしたことにヴェルディが立腹したこと・・・などであった。ヴェルディとしては、発起人であり当代随一の作曲家を自負する自分が最後の締めくくりをするのが当然と思っていただろう。


 お蔵入りとなった「ロッシーニのためのミサ」を、ヘルムート・リリンクがシュトゥットガルトを率いて1988年に演奏した。これを聴いて浮かび上がってくることがいくつかある。ヴェルディは13人に作曲を委託するに当たって、全体像を描いていたようである。どの部分は合唱で、どの部分はソロをいれ、またソロと合唱で、あるいは4重唱で・・など。いま私たちが公演に向け準備しているヴェルレクの構成と、「ロッシーニの・・」の構成は酷似している。

 

その後ヴェルディが、マンゾーニの逝去を期にレクイエムの作曲を思い立ったとき、彼は「ロッシーニの・・」のときに作曲した“リベラ・メ”があったことを忘れていたという。しかしその存在を思い出させられ、促されて、そこからこのヴェルレクが作られた。1曲目から作曲されたのではない。最後の、以前作った“リベラ・メ”の、そのモティーフを逆に前へ前へと用いたことが判る。(あぁ面白くて、私はこれで論文が書けそう・・・いいえ、そんな。)

とにかく、心浮き立つ(?!)レクイエムです。

 

 

 生演奏の魅力

                      大沢 栄子

 

TVをつけたまま家事をしていた。途中からだったが、TVではクラウディオ・アバドの指揮でルツェルン祝祭管弦楽団がマーラーの交響曲第1番“巨人”を演奏していた。耳慣れた旋律が心地よく時間の中を流れて行く。そして最後の棒が振り下ろされた。

  万雷の拍手とブラボーの叫び。アバドは楽団員に有難うの挨拶をしてから、聴衆を振り返る。更に大きな拍手、そして立ち上がって手がちぎれんばかりの鳴り止まぬ拍手。アバドが袖に下がっても、また出て来ても、嵐のような拍手と声援は鎮まらない。どれぐらい経っただろうか。ついに楽団員同士が頬を寄せ合って挨拶を交わし、ステージを後にした。その後も続く拍手に応えてアバドが登場・・・・。

  演奏中は家事をしていた私も、その時点でTVに釘付けになってしまった。こんなにも人々に感動を与える演奏は、音楽は、いったい何なのだろう?と思わずにいられなかった。 人々を惹き込み、酔わせる音楽の力!

  マーラーにあるだろう、アバドにあるだろう、楽団にもあるだろう。多分それを陰で支えているのはホールの響きだったり、たくさんの人々の働きがあったからに違いない。

  しかし私は、その同じ時間を同じ場所で同じ音楽を演奏し、聴いたという体験の相乗的な感動が、人々をこのように熱狂的に酔わせるのだと思った。

  TVを見て聴いている私に届かないものがある。素晴らしい演奏だったとは思う。しかしあの聴衆のようには届いてこないのだ。それが生演奏の醍醐味だ。TVでもCDでも、それを味わうには程遠い生演奏の魅力。1回限りの音楽の素晴らしさはそこにある。

 

ドビュッシー 音楽と美術

                                 大沢 栄子

ブリジストン美術館で終了間近の「ドビュッシー    音楽と美術展」にようやく行って来た。

残念ながら肝心の音楽はあまり流れていず、もっぱら美術展であったが、ドビュッシーの時代の芸術がお互いに影響し合っていたことを大いに感じ取ることができた。最もはっきり表れていたのが、ドビュッシーがピアノを弾いている姿のすぐ後ろの壁に、ドガの「踊り子」と「馬」の絵が掛けられていたものだった。当時の画家ドニが描いたドビュッシーの肖像画のひとつである。(ドビュッシーは18621918、ドニもドガも18341917


そのほかにもモネありマネありルノアールありロダンあり、印象派或いは時代を切り開いた巨匠たちが並び、この時代のフランスの芸術がいかに豊かだったかが判る。また、ドビュッシーとショ―ソンが連弾をしている絵もあり、ふたりの交友の微笑ましさが描かれていた。


音楽家がその生きた時代にどのような立場や地位にあったかによって、人間関係は制限されたり広がりを見せたりする。

バッハ、ハイドンの時代には、音楽家は教会や宮廷に仕える楽長と呼ばれる職業であった。従って教会の暦のために必要なカンタータやミサ曲、また宮廷の行事のための音楽を創ることが要求される仕事であった。モーツァルトやベートーヴェンに時代が移ると、個人の創作意欲によって生まれた曲は、貴族に献呈されたり出版社に買ってもらう、いわば商品としての価値を認められるようになった。


しかしドビュッシーたちの時代は違う。彼らは独立した地位を得、それまでの形式や習慣にとらわれず、新しい手法を次々に開拓していく。それが時代に認められるかどうかでなく、個々の自由な発想を作品にしないではいられない。だから概して彼らが“貧乏”だったのは仕方がないだろう。


ドビュッシーに「海」とか「映像」「版画」「こどもの情景」など視覚的な題材が多いのは、画家との交流から来たことは確かだと、この美術展で確信した。

 

マーラーのドラマを味わった

大沢 栄子

たった2か月のマーラー・シーズンが、終わった。

これまでのブラームスとは違う、ウエッバ―とも違う、ましてフォーレやラターとは全く違うマーラーの世界。あの思い入れいっぱいのppp や、数小節ごとに書かれた細かい指示。

マーラーが、尊敬するハンス・フォン・ビューローの葬儀で耳にしたクロップシュトックの詩による賛歌に感動して、その詩に自分の思いを付け加えて交響曲第2番の結びにした。彼が耳にした賛歌は大変素朴な旋律であり、古いドイツのコラールそのものだが、マーラーはそこから全く違う世界を創り出した。

 

それはさて置き、都民響への客演。あの大音量のマーラーの音の海に浸り渦に巻き込まれ、そして突然の静寂の中から聴こえてくるのは、“甦るのだ”の旋律、“おお、信ぜよ”の旋律。勝利のラッパが彼方で呼んでいる。行くべきか、それとも・・・。もう立つ足元が激しく崩れてきているのに、まだ迷い、後退し・・・。

そんなオーケストラを味わいながら、遂に私たちは歌い始めた。はじめは自信なげに葛藤し、自らの中で応答しつつ、徐々に確信を持ち、「死は無駄ではない。あの光を目指して漂い進もう!あなたは神のもとに一瞬のうちに導かれ、復活の時を迎えるのだ」と。そこに到達するまでには、時に世界が崩れるかのような厳しさを表す大音響。自分に語りかけ、でも末廣先生は「相手に語りかけるのです」と言われた。そんな確信を持って歌えたら・・・。

私はオケを聴きながら歌詞を思い起こし、復活に懸けるマーラーの思いを反芻していた。オケにはオケの表現がある。しかし合唱の私たちには、マーラーが“ことばに込めた深い意味”が直接与えられていたと思う。まさにそれはドラマだった。「zu  Gott,  zu  Gott」と呼びかけ、「wird  es  dich  tragen! 」と叫ぶ、そこには死に対する絶望ではなく、希望と憧れがあった。

都民響のエネルギッシュな演奏。特別団員の参加にも大いに力を頂いた。楽しかった。

さあ、切り替えてヴェルレクが始まった!

 

  「マーラーは要求する」

大沢 栄子

アカデミーのマーラー・シーズンはあとひと月。あっという間に過ぎることになります。初めて「復活」を歌う方、第2交響曲全体をもうお聴きになったでしょうか。演奏会のステージ上で初めて聴くことにならないよう、CDをお持ちでなければ、図書館ででも借りて、全貌を見渡しておかれると良いと思います。

それにしても、たった15分ほどの合唱の間だけでもマーラーが書いたドイツ語の指示の多いこと! そこまでの65分あまりのオーケストラにも沢山の指示。マーラーは余程、自分の思い通りの演奏を要求したかったと考えられます。“前進するんだけど、急ぎ過ぎないで”“テンポを少し落とすけど、引きずってはだめ”・・・etc

マーラーは生前は有能な指揮者としての活動し、あちらこちらの交響楽団や歌劇場に就任しますが、“引っ張りだこ”で移ったというより、彼の要求の多さに楽団員が辟易して練習途中で席を立ってしまうようなことが起きて、10年契約が2年で終わってしまったという事もありました。彼の中でこの曲はこうでなければという思いが強く、その通りに演奏されなければ気が済まなかったのです。

 古くは作曲者が自分で演奏していた時代が長くありましたが、楽譜が出版され、他の人が演奏するようになると、楽譜は単なる符号になります。演奏家はそれを自分なりに解釈して演奏する。作曲者の意図とは違っていても、それはそれで認められる時代になりました。だからこそ、マーラーの指示は彼の意図を示すものとして貴重だと言えるでしょう。

 彼の作品も当時としては新しくて理解されず、「僕の音楽は50年後に受け容れてもらえるだろう」との言葉が残されていますが、実際に“50年後”にマーラー作品は受け容れられ、たくさんのファンを持つようになりました。

 

身近な人の死とドイツ・レクイエム

 Sさんは娘さんのお舅さんの死をきっかけに、レクイエムを歌おうと入団されたとお聞きしました。Mさんは第7曲を歌っているとお父さまのことを思い出して涙が出ると言われました。Kさんはパパとママのために歌うの、と言われます。皆さんそれぞれにそういう方をお持ちになっておられることと思います。

 実は私は義弟を1週間前に突然の事故で失いました。あまりの急なことに、家族は関係の方たちに集って頂いてご挨拶を受けるのも辛く、家族葬で送りたいと希望しました。家族葬の司会進行役を私の夫が引き受ける事になりました。

 夫はいろいろ考えた末、ドイツ・レクイエムの歌詞を朗読しました。

 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められます(今はそれを素直に受け入れられませんが)。人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようです。草は枯れ、花は散る。(本当に儚いものです。)教えてください、主よ、私の行く末を。わたしの生涯はどれ程のものか。ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの。主よそれなら、何に望みを掛けたら良いのでしょう。万軍の主よ、私たちはこの世に永続する都を持っていないのです。でも死は最後には勝利にのみ込まれます。万物を創造された主の栄光と誉れと力を信じましょう。だから、主に結ばれて死ぬ人は幸いです。彼らは(人生の)労苦から解き放たれて、安らぎを得たのです。その行いは報われるのです。」

 この聖書から引用された歌詞は、慰めに満ちています。さまざまな人生を送って亡くなった人も、“労苦から解き放たれて、安らぎを得た”と思うと、遺された家族や人々はどんなに慰められるでしょう。

 

“歌”は歌詞をただ歌うのでないのは勿論です。身近な人の死を悼みつつ、ひとつひとつの言葉に思いを込めて歌う時、心に響く歌を聴衆の皆さんに届け、共感を受けることが出来ると思います。

 もともとレクイエムは個人の死のために歌われてきたものなのですから。

 

 “師匠”吉田秀和氏ご逝去

                                       大沢 栄子

新幹線の中、イヤホンでブラームスを聴いていた。ドアの上に「・・新聞ニュース:吉田秀和氏が亡くなりました」とテロップが流れ、一瞬のうちに私の胸は涙の海となった。

 “最近、朝日新聞に《音楽展望》が出ない”と気にはなっていた。8年ほど前だったか、《音楽展望》に「家人が亡くなり」と書かれたときには「ああ奥さまを亡くされたのだ、まさか筆を折られなければ良いが」と懸念した。かなり長い中断のあと、しばらくぶりに出た時にはホッとしたものだったが回数はかなり減り、相当のお歳なのでいつも心配していた。

 私は吉田秀和氏に“勝手に弟子入り”していたのだ。これまで数々の立派な先生にご指導いただいたが、吉田先生には一度もお会いしたことがない。しかしあるとき読んだ音楽批評に「これが私の目指す書きかた!」と惚れ込んでしまった。すべて1人称で書かれ、幅広い知識とそれを普通の言葉で書き表し、易しいようでなんと奥の深い表現! “ことば”の持つ力をこれほどに感じられたことはなかった。少しでも近づきたい。音楽のみならず、あらゆる芸術と、歴史観、世界観、人間観など、とても及ぶべくもないが、自分の成長なくしてこのようにはならないのだと思っていた。1人称で書くこと、借り物でない自分の考え自分のことばで書くこと、しかし独りよがりでないこと。

 “師匠”を失なったが、たくさんの本を遺していって下さった。それらが私の“師匠”となり、これからも導いてくださるだろう。「人が永遠に生き続ける」とは、そのようなことかと思う。

ネーニエのシラ―の詩、「美しいものは過ぎ去り、完全なものも死ぬ・・・愛する者の口で嘆きの歌を歌われるのも素晴らしいではないか」としみじみ思う。

 

6月30日のブラームス公演に向けて

 


 

  ネーニエ Nänie (哀悼歌)作品82       1880年作

 

 ネーニエとはラテン語で哀悼の意である。ブラームスは友人の画家フォイエルバッハを天に送り、その母親を慰めるためにこの曲を作曲したと言われている。

 35歳という若さで作曲されたドイツ・レクイエムに比し47歳の作、ドイツ・レクイエムで一躍認められた頃と異なり、既に円熟期のブラームスであった。

 

 “美しいものとて滅びねばならぬのだ”と4分の6拍子で静かに流れる旋律、自分の胸に言い聞かせるように歌い出す曲は次第に高揚し、この運命には誰しもが従わねばならないと結論づけるためにブラームスは、それまで123,456となだらかに流れていた旋律を12,34,56と3分割して締めくくる。また、旋律を重ね合わせながら波打つように美しく進行する中に、時折挟まるア・カペラ(合唱のみ)で歌われる部分も、ブラームスがそこに込めた強い思いの表れだろう。

 詩はシラ―の作である。シラ―は日本ではベートーヴェンの第9「合唱つき」の歓喜の歌で知られているが、ドイツではゲーテ以上に学ばれ尊敬される、理想主義を貫いた詩人であった。この詩の中には、ギリシア神話が3つ登場する。亡き妻をこの世に戻してもらおうとして失敗した夫、果敢に動物に挑んで猪に突かれて死んだ若者、母が息子アキレスに自分の不死身の力を分け与えようとしたが叶わずに死んだ息子。それぞれの神話の悲劇的な死の結論も全部上記の3分割で締め、次の神話に移るという手法がこの曲を特徴づけている。思いがけない転調によって次の神話に移るのもブラームスの味わい深いところだろう。

 中ほどに4分の4拍子の中間部が入り、最後に再び“こうして美しいものも過ぎ去るのだ。しかし愛する者たちが嘆きの歌を歌ってくれるなら、それは素晴らしい事ではないか。凡人はひっそりと去っていくしかないのに”と慰めのフレーズを投げかける、シラ―とブラームスの見事なコラボレーションで、曲が構成されている。

 

ブラームス:ドイツ・レクイエム  op.45  1868年作

                                

幾つもの特色を持ったレクイエムである。ラテン語でなくドイツ語であること。死者の魂の安息を祈るレクイエムの典礼文から全く離れて、ブラームスが独自に、宗教改革者マルティン・ルターの翻訳したドイツ語聖書から歌詞を選んだこと。そこには死者の安息ではなく、遺された者のために慰めを祈る思いが込められていること。

「音楽は、流れる建築である」とは19世紀初頭のロマン派文芸評論家シュレーゲルの言葉で、印象深く私の心に残っている。どんなに美しい形であっても、均衡がなければ建造物は倒れるだろう。構造、素材選びなどが建築には不可欠である。然し音楽は時間と共に流れていき、虚心に聴いていて均整、構造を思い浮かべることは難しいかも知れない。それで敢えて始めに書いておこう。ブラームスのこのレクイエムからは“流れる建築”を聴きとっていただけるかも知れない。

シューマンは53年に20歳の青年ブラームスに出会い、「音楽新報」に「ベートーヴェンの立派な後継者が現れた」とブラームスを絶賛した。そのブラームスはベートーヴェンの構造、素材の使い方、そしてバッハやそれ以前の音楽の素材の使い方や骨格を研究し尽くし、35歳のときのこの曲に生かし切ったように思う。身構えてそれを聴きとろうとしなくても自然に、繰り返し表現されている生と死についての切なさと、聖書の言葉から受ける優しさや慰めを音楽の素材の中に受け取ることができるだろう。

このレクイエムの7曲からなる構成は、第4曲を中心に対称形をなしている。第1曲と第7曲は“Selig sind die da Leid tragen”(悲しむ者は幸いである)と、同じテーマが曲の中心となり、第2曲と第6曲は後半に大規模なフーガが繰り広げられる。第3曲はバリトン・ソロと合唱、第5曲はソプラノ・ソロと合唱という対照、そして真ん中に天国的なハーモニーの伸びやかな第4曲。そして素材はいくつかのモティーフ(曲に繰り返し用いられる基本的な旋律)で、音程を変え、長さを変え、反進行し、と様々に変えながら用いられ、実は曲に知らず知らず一体感を与えている。

 

 第1曲 “悲しむ人は幸いである”

 弦楽器とオルガンによる通奏低音の上に、うねるような旋律が次々に重ねられる。それは最高でも五線譜上のレまでしか到達せずに次第に落ち込んで悲しみに沈んだところから合唱が始まる。「悲しむ人は幸いです。その人は慰めを受けるのですから」。始めの3音の音形は、始めのうねるような音形と共に、第7曲の終わりまでの大切なモティーフとなる。

 曲想が変わって「涙と共に種まく人には、刈り入れの喜びがある」「泣きながら種まきに出て行った人は、束ねた穂を背負って喜びの歌を歌って帰ってくる」と、明るい旋律がフーガとなって重なり、それが終わると、始めのモティーフに戻って非常に落ち着いた慰めの中にハープが優しく光を投げかける。

 

 第2曲 “人は皆、草のよう”

 葬送行進曲とも言われる重々しい出だし。草のように花のように、華やかに見えても必ず枯れ散る生命を歌う。「しかし」とブラームスは悲しみのままに終わらない事を聖書から引き出す。「農夫は忍耐して実りを待つのです。雨が実りをもたらし、必ず喜びの日が訪れる。嘆きや悲しみは逃げていく。だから忍耐しよう」と、力強いフーガが壮大に繰り広げられる。

 オーケストラも期待の雨をきらきらと表現し、また「とこしえの喜び」を様々な和音の厚みで支えるのだが、合唱は最後のFreude(喜び)がか細く落ち込んで行くのは、まだ悲しみから充分に立ち上がっていないからだろうか。

 

 第3曲 “主よ 教えてください、私の行く末を”

 そして人の命への虚無感を訴える。人は確かに立っているようでも影に過ぎない。バリトンのソロの後を追って、合唱も切々と歌う。「何に望みをかけましょう。私は主を待ち望みます」。

 

 第4曲 “万軍の主よ、あなたの住まいは何と素晴らしい”

 憧れに満ちた音楽。「あなたの素晴らしい住まいを慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」。そしてそれは明るい賛美の声に変わって行く。「あなたの家に住む事ができるなら!」。

 

 第5曲 “悲しんでいるあなた方に私は会い”

 ソプラノのソロは神の救いの言葉である。「今なお悲しむあなたがたが私と再び会うとき、心からの喜びに満たされる」。その宣言の間に「母が子を慰めるようにわたしはあなた方を慰める」という優しい聖句が合唱によって度々挿入される。この曲は7曲の中で最も遅く作曲されたのだが、ブラームスが愛する母を亡くして、まだ完成に至っていなかったレクイエムをここで一挙に纏めたと言われる。母の慈しみと神からの慰め(trösten)を重ね合わせ、暖かさに満ちた曲である。

 

 第6曲 “この世に永遠の都はなく、私たちは来たるべき都を探しています”

 殆どのレクイエムには最後の審判(怒りの日)を描くドラマティックな場面がある。ブラームスはこれを「復活と勝利の日」として捉え、バリトン・ソロがオラトリオの福音書記者の役割のように「聖書に書かれたことが成就した」と宣言し、合唱の叫び「Tod()Tod」のあと音は一瞬途切れ、「死は勝利に飲み込まれた」と勝ち誇って歌われるのである。そして「主よ、あなたこそ、栄光と誉と力を受けるにふさわしい」と賛美が響き渡る。

 

 第7曲 “主に結ばれて死ぬ人は幸いである”

 終曲は「selig(幸い)」と第1曲と同じテキストであるが、晴れやかでゆったりと、死への恐れから解放された幸いを歌う。「労苦から解放されて安らぎに入ったのだから、もう悲しまなくて良いのだよ」と静かに、究極の平安を歌って終わる。

 

 

 

 

                              

 音楽之友社から出ている“作曲家・人と作品シリーズ・ブラームス”篇が手許にある。「ドイツ・レクイエムの作曲にシュッツとバッハが深く関わっている」として、第4曲“Wie lieblich sind”はシュッツの「シンフォニエ・サクレ第3巻第4曲の《息子よ、なぜあなたはわれらにこのような仕打ちをしたのか》と同じ歌詞を用い」と書いてあって驚いた。

 ブラームスの第4曲は殆どの部分が和声的で天国を夢見るような旋律、そして“die loben dich immerdar”と賛美が迸り出るようなフーガが短く挟まる曲である。《息子の仕打ち》という言葉とはおよそ程遠い。どうしたことか?

 疑問を持った私は、シュッツのシンフォニエ・サクレ第3巻の歌詞を開いてみた。“Mein Sohn, warum hast du uns das getan? ”確かにこれだけ訳せば《なぜ、こんな仕打ちを》と訳せないことはない。しかし、これはイエス12歳のときにエルサレム神殿への参拝中に息子を見失い、探しまわった数少ないイエスのこども時代のエピソードである。神殿の中で学者たちの中に息子を見つけた時に《なぜこんなところに》ぐらいの、心配のあまりの親の叱責かも知れない。“Siehe, dein Vater und ich haben dich mit Schmerzen gesucht”《ご覧なさい、お父さんと私はどんなに心配してあなたを探していたことか》と母親が言うと、「私が天の父の家にいるのは当然のこと。心配しないで」と息子イエスの言葉。それを受けてシュッツが「あなたの家は何と心地よい」“Wie lieblich sind deine Wohnungen”と、詩編の中から、天の住み家の素晴らしさを歌ったという筋書きだ。

ブラームスはその後半のテキストを使った訳だが、これはシュッツから引用したのでなくルター訳聖書から取り上げたので、「シュッツと同じだ!」ということではないだろう。それよりも、「《こんな仕打ちを・・・》と同じ歌詞」と記述することから受けるイメージは決して良いとは言えない。翻訳は前後関係を踏まえないと誤解を招く。自戒を込めて、そしてこのブラームスについての本をお読みになった方にもお知らせしたい。

またそれに続く記述も第2曲が、バッハのカンタータの「ここが似ている、あそこが似ている」と言われてはバッハもびっくり。現代なら著作権訴訟になったかも。開始音4つとリズムが似ていると言われても困ります。

 

 

  「ネーニエ」とギリシア神話            

 

「美しいものとて滅びねばならぬ!」 人の定めをうたったシラ―の詩に流れるテーマは、ドイツ・レクイエムの「人はみな草のよう」に通じるもので、“そうだなぁ”と納得せざるを得ない。それにしてもシラーは3つのギリシア神話を、何と巧みに引用していることだろう。

 

1番目の神話は竪琴の名手オルフェオの妻エウリディチェが、アポロンの息子の抱擁を逃れようとし、林の中で毒蛇に噛まれて命を落としたところから始まる。若い妻の命を取り戻そうとオルフェオは黄泉の国(タルタロス)に出向き、入口をふさぐ真鍮の門の前で威嚇する獰猛な犬を、竪琴の美しい調べでおとなしくさせた。渡し船の船頭、見張り番・・と次々に竪琴で魅了し、王座のハデスの前に進み出た。ここでも彼は、結婚して1年にもならなかった妻への思いを竪琴を弾きつつ歌った。心を動かされた王妃の様子を見て、王は寛大な処置と見せかけ、エウリディチェが黄泉の門を出ることを許す。そのための条件は“オルフェオは門を出るまで、決してエウリディチェの方を振り向いてはならぬ”ということだった。オルフェオはその約束を守って、一度も振り返らずに歩む。ところが王の指示した森の道に入ると落ち葉が地面を蔽っていて、音楽の敏感な耳を持ったオルフェオも耳をそばだてていないと妻の足音が聴こえにくくなり、ついに門に辿りつく寸前、妻の足音が消えた。オルフェオが思わず振り返ると、彼が見守っている間にエウリディチェの姿はかすみ、蒸気のように音を立てて消えていってしまった。ハデスの策略が効を奏したのだ。「贈り物を帰らせた」という詩句の背景はそういうことである。(対訳のカッコ内に説明のつもりで書いた「扉を開けなかった」はまだ勉強途中で読みが中途半端。消して下さい。)

 

2番目の神話はフェニキアの王子アドニスの物語。愛の女神アフロディテはこの眉目秀麗な青年に求愛する(あらら、夫がいるのに)。しかし狩猟好きなアドニスは次々に、より危険な動物を追い続け、猪に突かれて死んだ。彼から流れ出た赤い血から赤いアネモネの花が咲いたという。それはレバノンの山腹を蔽った。(そう言えば、隣接するイスラエルにもアネモネが多い。それにしても、ギリシア神話は自由恋愛だし、殺したとか騙したとか、美しい話は少ないです。)

 

さて第3話は有名なトロイ戦争にまつわる出来事。トロイ戦争の発端や経過、また神話と歴史の関係は長いので割愛するが、アキレスの母、海の女王テティスは不死身。自分の不滅性を息子にも与えるため、ステュクス川に息子を浸した。その際、アキレスのかかとを持っていたため、テティスの親指が当たっていたかかとの部分だけがアキレスの弱点となった。姿美しく戦術に長けたアキレスの強さは、彼が戦場に現れるだけで敵は退散すると言われるほどで、アキレスが総大将なら戦わないと敵に拒まれたという。ところが彼が倒したヘクトルの死の3日後にアキレスは死ぬという運命の女神の予言通り、ヘクトルの弟パリスが闇討ちでアキレスのかかとを打ち抜き、アキレスは死んだ。海の賢人ネレウスの50人の娘の中で最も美しかった母テティス。彼女はその姉妹たちと共に息子の死を嘆いた。

 

多くの人が死を嘆いてくれるなら、それもまた素晴らしいではないかと、シラ―は友人の死に際し、その母を慰めたのだ。(そして、“アキレス腱”の名は母親の願いどおり不滅です。)

 

 

 

 

 「シラ―への友情と“第9”」  

          

あなたはご存知でしたか? 私は知らなかったのです、シラ―があの第9「合唱」に用いられた詩を書いたいきさつを。

次期演奏会のブラームスの「ネーニエ」の詩とギリシャ神話との関係を知りたいと思ってシラ―を調べ始めたら、第9の詩の全訳が2種類見つかったのです。

ちょうど年の暮、ケーブル・テレビの“クラシカ・ジャパン”では、あの指揮者この指揮者の第9が、連日繰り返し放映されていました。

“すべての人が兄弟となる。

   抱き合え、幾百万の人々よ!”

 合唱団がFreude・・・Freude と喜ばしい歌声を挙げていました。しかしシラ―がこの詩を書いたのは、大きな苦難の中から漸く抜け出した時でした。

 理想主義者のシラ―の文筆活動は、その内容が当局の検閲に引っ掛かります。厳しい時代でした。シラ―は友人シュトライヒャーの助けを借りて、馬車に身をひそめ、マンハイムを脱出します。このシュトライヒャーこそ、難聴がひどくなったベートーヴェンに何とか聴こえるようにと工夫したピアノを提供した人で、シラ―とベートーヴェンの接点がここにあります。折角の脱出でしたが、ここでもシラ―は劇場からボイコットされ、生活に行き詰まり、生死の境まで来ていたのです。

 その時シラ―が思い出したのは、彼にかつてファンレターを送ってきた4人の見知らぬ人々でした。ケルナ―と3人の人たち、彼らはシラ―の理想に満ちた作品に感動し、当時の社会に必要な精神をまっすぐに書き表すシラ―のような詩人・思想家が今もっとも求められると書き送っていたのでした。シラ―は返事が遅れたことを詫びながら、自分の現状を知らせました。ケルナ―たちはシラ―をライプツィヒに迎え入れ、様々な便宜を図ります。ようやく生きのびる光を見出したシラ―は、その喜びの心境をあの「歓喜の歌」に込めて歌い上げたのでした。

 ベートーヴェンは詩の3分の1ほどを省略していますが、それでもシラ―の喜びに心躍る様子は充分伝わってきます。

     “ひとりの友の友となる

      大きな幸に恵まれた者、

      優しい女性をかち得た者は、

      声を合わせて歓呼せよ!

      そうだ、ただ一つの魂をでも

      この地上で我がものと呼べる者は!”

 暖かい友情が、あの詩を生み出したと知って、私は一層の感動をもって年末の“第9”を聴いていました。

 

 

「わたしの魂は絶え入りそうです」

                              

125日の分唱のとき、太田先生が4番のテキストを読みながら「この箇所は何でしょうねえ」と質問されました。その前が「万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう。」で、それに続く「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。」なので、“絶え入る”というマイナスイメージの言葉について出た質問だったと思います。その時、私の頭の中には或る記憶が渦巻いていました。

シェクスピアの戯曲を坪内逍遥が翻訳し、全40巻の偉業を成し遂げたことについての講義を、早稲田で哲学の教授だった樫山欽四郎氏が半世紀前に語った内容のまた聞きを覚えているのです。何の戯曲かは判りません。ただ、深く愛し合うふたり。そのセリフ“I love you”を坪内逍遥は「死んでしまいたい!」と翻訳した、これこそがドラマの内容を深く読み込んだ名訳だと、翻訳はそういう深い作業なのだと。

「わたしの魂は絶え入りそうです。」はまさにそのような気持ちの表れではないのか、と私は思うのです。ただ、坪内は内容を読み込んでその表現をしたけれど、聖書の翻訳は原文に忠実でなければなりません。読み込んで自分の感情を投入することは“個人訳“にはありますが公の翻訳にはありません。

ですから私が思うに、この詩編の詩人の表現はすごい!坪内はこの詩編を読んでいたのかも知れないと。因みに、今回の対訳につけた聖書は「新共同訳」ですが、その前の「口語訳聖書」ではこの箇所は「わが魂は絶え入るばかりに主の大庭を慕い」となっています。原文の表現だということがわかります。

それにしても、私が半世紀も前に身近な者から聞いたシェクスピアの翻訳の話を覚えているのは、翻訳の難しさ面白さについてよりも、語った樫山教授が樫山文枝さんの父親だったという、ミーハー的な興味からなのかも知れません。

 

 

 

「ブラームスはお好き」

                              

フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」はかなり以前に話題になった恋愛小説で、これはその中のデートに誘うフレーズだが、デートはともかく私はブラームスが好きだ。長谷川さんの「ドイツ・レクイエム」へのぞっこんぶりには脱帽してしまうが、次回の演奏会に向けて私の友人たちへの誘いは既に始まっている。「良い曲よ!!」

 

ロマン派のただ中、形式より自由な表現という時代にあって、ブラームスはバッハやベートーヴェンを研究し尽くし、骨格のしっかりした曲を作った。しかもどの曲の中にも、ドイツの民族性を表す土の匂いをを持った旋律が紛れ込み、“ああ、ブラームスだ”という親近感を味わうので「ブラームスは好き」なのだ。

 

ところでこの「ドイツ・レクイエム」は“ドイツ語によるレクイエム”で、これまで次々に歌ってきたラテン語の典礼文によるレクイエムとは全く異なる。全くというのは、ラテン語の典礼文をドイツ語に翻訳したのではなく、ブラームスが独自に構成したものという意味においてである。これまでも、ラターのレクイエムでは詩編などが挿入されていたことがあったが、ブラームスは全面的に自分で選んだもので構成した。

1517年にマルティン・ルターがドイツで宗教改革を起こした。ルターは破門され、ヴィッテンベルク城にかくまわれている間に、聖書をドイツ語に翻訳して日を過ごした。ラテン語でなく自国語で民衆も読めるようにという理念であった。それがルターの欽定訳聖書である。印刷術の発明も手伝って浸透した。ブラームスはその聖書から、自らの判断で選んでこのレクイエムを構成した。

 

Kさんが「ブラームスのドイツ・レクイエムが好き、歌いたいという人が多いのは何故かしら」と私に問うた。その答えは対訳を見て頂けばお判りになると思う。そこにはブラームスの人生観、死生観がはっきり表れているではないか。

神への祈りに満ちたラテン語の典礼文によるレクイエムは、死後に来る怒りの日への恐れを中心に、憐れみを願い、平安を祈るものであるが、ブラームスの選んだテキストは慰めに満ちている。人間は弱い者、いつかは枯れ落ちる。その弱い人間への慈しみに満ちたまなざしを感じる聖書のことばをブラームスは拾い集めた。

“亡くなった人を思えば悲しいだろう。でも神の許へ行ったのだよ。死が勝ったのではない。生の労苦から解き放たれ、安らぎを得たのだよ”と語っているのである。

7曲のそれぞれに表されているものを汲み取り、充分に表現できればと思っている。

 

 


 

 

モーツアルトの2つの合唱曲について

 

 

モーツァルトと言えば? 神童・父レオポルトに連れられての演奏旅行・貧乏・夭逝。これらをつなげばモーツァルトの生涯が描けそうだ。間違ってはいないが、ここから素朴に生まれる彼の虚像は、もう少し当時の社会を通して見る必要があるだろう。

1756年から1791年までの35年と10カ月の生涯。世に出た250年前の音楽家の地位は高くなく、宮廷で社交の席の楽しみのための演奏、教会の必要に応じて作曲、自由な創作の時代ではない。そしてヨーロッパは大転換の時を迎えていた。産業革命による市民階級の台頭、1789年フランス革命、音楽家をバックアップしてきた貴族階級の没落。

このような時代の「戴冠ミサ」と、努力や才能を無視され不満の固まりで雇い主の支配から飛び出したものの貴族の支えを失い、貧しさの中で命絶えたモーツァルトの「レクイエム」が今日の2曲である。

 

  

 

《戴冠ミサ》.317 1779

  

 

 この曲は復活祭のために作曲され、その後、聖母被昇天の祝日に、また皇帝の戴冠式にも用いられて「戴冠ミサ」と呼ばれるようになった。

モーツァルトの音楽の特色は何と言っても音階的な動きと分散和音による構成で、そのため耳に自然な響きであり、全体を通してそこに注目して聴くのも面白いだろう。

1曲のキリエからそれは明らかである。オーケストラはハ長調の主和音、属七和音、その後転調しながら終始、分散和音を演奏するのに対し、合唱はひたすら音階的に動いていく。単純なようだが強弱のアクセントが大きな特徴となっている。第2曲のグロリアも同様に音階と和音で構成され、2曲ともソロの部分に柔らかい旋律が配されている。

3クレドは神とキリストへの信仰を言い表す長い定型文。前曲同様アレグロのテンポで疾駆し、決然とした表現だが、中間部の「マリアより生まれ・・・十字架に付けられ、苦しみ、葬られた」の部分で突如アダージョ、ため息をつきながら切れ切れの表現となる。「三日目に甦り・・・」からは再び速いテンポで進む。オーケストラは速い拍を16分音符で休まず走るが、音階と分散和音で滑らかな印象である。

4曲のサンクトゥスは荘重、そしてホサナの歓声。第5ベネディクトゥスと終曲アニュス・デイのソロは優しい旋律に満ちる。特にアニュス・デイの旋律は「フィガロの結婚」で伯爵夫人のアリアに一部が転用され、聞き覚えのある旋律かと思う。

 

 

 

 

レクイエムK.626  1791

 

 これはモーツァルトの未完の遺作である。広く知られている逸話だが、モーツァルトを灰色の服を着た男が訪ねてレクイエムの作曲を依頼し、多額の前金を置いて立ち去った。後に判ったことは、音楽好きのヴァルゼック伯爵なる人物が妻の死去に際し、モーツァルトをゴーストライターにして、自作としてレクイエムを演奏しようとしたのだった。

その頃モーツァルトの健康は悪化し、彼は殆ど自分の死を意識しながら作曲し始めた。次の手紙は偽作の疑いが強いと言われるが、当時の心境を表している。「僕の目からあの見知らぬ男の姿が消えない。いつも作曲の具合を訊ねるのだ。僕は続けている。作曲の方が休息より疲れないからだ。・・・今や時が刻まれている。僕は自分の才能を楽しむ前に終わってしまうんだ。・・・こうして僕は自分の葬式の歌を終える。」

ではモーツァルトの体は作曲もままならぬ状態だったかと言うと、命を終えた12月までのこの1791年には、オペラ「魔笛」「皇帝ティートの慈悲」をはじめ30曲以上の作品があり、彼は最後まで溢れるものを書き続けて燃え尽きた。フリーメイソンの思想に支えられていた彼にとって、“死”は精神的に生まれ変わるための“旅”だったのだ。

 

さてレクイエムだが、モーツァルトが声楽部分とオーケストラ部分まで完成させていたのは第1曲の前半イントロイトゥス部分のみ。キリエから第8曲の“ラクリモサ”の8小節までは合唱、ソロ、器楽の低音を書き、また主要な音型はスケッチで残された。妻のコンスタンツェは、残金を受け取るため弟子のジュスマイヤーらに完成を委ねた。ここでジュスマイヤーは師の偉大さを痛感することになる。彼は書かれた部分をモーツァルトとたびたび一緒に歌い、特に“ラクリモサ”ではモーツァルトは嗚咽して歌えなかったと出版社のブライトコップフ社への手紙に書いているので、かなりの示唆を受けていた筈だが、師のように作曲出来ない。後の作曲家たちは彼の技法の欠点を指摘し、残りの部分を作曲してみせた。しかし弟子が完成させたからこそ「モーツァルトのレクイエム」と言えるのであって、他の作曲家がどんなに立派に補筆してもそれは「モーツァルト/だれそれ」のレクイエムになってしまうであろう。

 

第1曲が始まる。ゆっくり歩を刻むような低音の弦に乗ってホルン、バセット・ホルン、トロンボーンと次々に管楽器が重なって厚みを増していく。このホルンのレ♯ドレミファという5音のテーマを声ではバスが受け取り、他のパートが重ね、第2曲“ディエス・イレ”の低音楽器にもこの音型がもぐり込む。モーツァルトが全体の統一を図ったことが窺える。ジュスマイヤーが最後の“アニュス・デイ”の冒頭のバスにこれを用いて師の意図を継いだのはお手柄と言うべきだろう。

合唱はあくまでも音階的に静かに進む。キリエに入ると、“キリエ・エレイソン”と“クリステ・エレイソン”がそれぞれの旋律で絡み合いながら進むのがこの曲の特徴と言える。何故ならば典礼的にはこの二つは順次演奏され、絡むことはないのである。しかし確かな骨組みを感じさせるレクイエムの始まりではある。

典礼文の続唱は第2曲“ディエス・イレ”から第7曲の“ラクリモサ”まで6曲に分けられ、“怒り”、“最後の審判を告げるラッパ”、“神の威厳”、“慈悲の懇願”、“審判への怖れ”、“涙と祈り”という、テキストに沿った表現である。それは、モーツァルトの

類い稀な音画で、怖れや緊迫感、抒情までもが表され、この曲の印象を忘れ難いものにする。“ラクリモサ”の最後の「アーメン」にモーツァルトはほぼ16小節のフーガの断片をスケッチで残した。しかし対位法の習得に未熟だったジュスマイヤーは師の構想を生かせず、渾身の1回きりの「アーメン」で“ラクリモサ”を締めくくる。

8曲から後はジュスマイヤーが作曲した。ある程度の示唆があったようだが、モーツァルトならどのような曲になっただろうかと想像するしかないだろう。最後の“アニュス・デイ”の後半に、ジュスマイヤーはモーツァルトの書いた“イントロイトゥス”と“キリエ”の旋律を用いて曲を締めくくった。

 

 神学者カール・バルトは、モーツァルトの音楽について次のように言っている。

   「そこには暗黒を知らぬ光はなく、苦悩を内包しない歓喜はない。」

 死者を送るこのレクイエムに、モーツァルトの奥の深い魅力を見出す言葉ではないだろうか。

 

 

 

モーツァルトの子どものころ

 モーツアルトはザルツブルク生まれ、ザルツブルクはオーストリアの一都市。ではモーツァルトはオーストリア人かしら? でもモーツァルト自身は自分をドイツ人だと思っていたとか。確かにザルツブルクは南ドイツに隣接していてドイツ語圏だ。そして当時オーストリアはまだ国として統一されていないし、ドイツもハプスブルク家が支配する神聖ローマ帝国だった。

 

モーツァルトが生まれた1756年、ザルツブルクは大司教の直轄領地で、ミュンヘンやウィーンなどの都市と違い、地方分権の確立した憲章都市。当時人口わずか16千人。

 

ご存知の通り、“ザルツ”は塩、“ブルク”は城、砦。近くのデュルンベルクで取れる岩塩を、川船でヨーロッパ各地へ送る船乗りから徴収する通行税が財源だったことからザルツブルクの名が付いたという歴史の街、“塩”という強い味方を持った経済的に恵まれた都市だった。(日本でも塩は貴重な品。上杉謙信は海のない甲州の武田信玄と戦ったとき、塩不足に悩む武田軍に、「戦いは弓矢で行うもの」として塩を送り、“敵に塩を送る”という故事が伝えられている)。

 

ヨーロッパは地続きなので、どの国も国の成立までには様々な戦いの歴史があり、1756年にはザルツブルクはオーストリアに属していない。だから、モーツァルトは言ってみればザルツブルク人? 1816年にオーストリアは統一され、ザルツブルクはオーストリアに属することになったので、モーツァルト=オーストリア人が今では正解。

 

息子に驚くほどの才能を見出した父レオポルト・モーツァルトは、財政が豊かで音楽的に恵まれた環境であっても、この小都市を出て広い世界で息子を育てたいと思い、姉のナンネルとの2人を連れて演奏旅行に出た。レオポルトは、一部で囁かれるような息子で金儲けをしようという強欲な親ではなく、息子の才能を伸ばし、貴族たちに認められて良い後ろ盾を作ってやろうとした、賢明な親だと思われる。

 

旅の先々でモーツァルト姉弟のピアノ演奏は“神童”ともてはやされ、噂は各地の宮廷に広がった。幼いモーツァルトの中に湧き上がる音楽の泉は、作品として殆ど加筆修正されずに残されてきた。

 

旅行は生涯の3分の1にも及ぶ長さだが、殆どが子どもの時代に集中していて、モーツァルトの身体の成長にとって影響がなかった筈はない。伝染病にも罹患し、虚弱な体質で小さな体であった。映画「アマデウス」に描かれている特異な性格は誇張されお話として作られたものだろうけれども、“神童”から普通の大人になって、そのギャップは大きかったと思われる。

 

 

 

 

モーツァルトの時代

               

J.S.バッハ1685‥‥1750

J・C・バッハ    1735‥‥‥‥1782

F・J・ハイドン   1732‥‥‥‥‥‥‥1809

WA・モーツァルト   1756‥‥‥‥1791

Lv・ベートーヴェン     1770‥‥‥‥‥1827

ゲーテ         1749‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1832

マリー・アントワネット  1755‥‥‥‥1793

 

まず、モーツァルトとマリー・アントワネットとの生涯がピッタリ重なる。オーストリアからフランスのルイ16 世に嫁ぎ、フランス革命で悲劇的に散ったアントワネットに、モーツァルトの時代の激動を知ることができる。貴族の没落は、宮廷に依存していた音楽家にとっても激震だった。一方民衆の台頭で音楽家は自立の方向に行くのだが、それは一気には到達できず、モーツァルトは自立にはまだ遠い。

なお、アントワネットの母親マリア・テレジアにモーツァルトが謁見したとき、テレジア妃はモーツァルト姉弟の演奏を大変気に入って式服を贈った。子どものモーツァルトの肖像画の立派な装いはそのとき下賜されたものである。

 

音楽家たちとは上記のような重なりで同時代を生き、影響を受けたり与えたりしていた。JS・バッハからは作曲法の上で大いに学んだが、直接ではない。その息子クリスティアン・バッハやハイドンとは直接の交流で影響を受けている。ベートーヴェンとは一度会い、ベートーヴェンは即興の変奏を披露し、モーツァルトは大いにそれを評価した。しかしその声がベートーヴェンに届かず、ベートーヴェンは自分への評価が低いとがっかりしたようだ。それにしても現代、巨匠と呼ばれている音楽家や芸術家との交流は挙げれば他にも何人もあり、豊かな創作の時代であったことが判る。

文豪ゲーテは「若きウェルテルの悩み」などの作品を、書き始めれば1行も書き直すことがなかったという。その点モーツァルトと同じタイプの作家で、ゲーテはモーツァルトを最高の天才と評価していた。ショパン、メンデルスゾーンなど後の作曲家たちからも最高の賛辞を贈られているモーツァルト、さすが古典派の最高峰である。

 

 

ドミンゴと Uさん

 

 

きょうもまた、ドミンゴの歌う「ふるさと」を聴きながら涙を流してしまった。

 410日、大震災後1カ月の日本でのコンサートのアンコールで、ドミンゴは「日本の人たちと心を一つにしたい」と言って、日本語で「ふるさと」を歌ってくれた。彼の暖かい心に触れて、会場の人たちも涙を拭きながら一緒に歌っていた。

 ドミンゴの歌だけでなくその人柄に、彼の魅力は一層増した。それにしても70歳! 素晴らしい自己抑制で保たれている歌声だ。

私は、ドミンゴのCDと彼の出演したオペラのレーザーディスクをたくさん持っている。私が買ったものではない。全部Uさんの遺品なのである。

 Uさんは若い頃、オペラ歌手をめざして勉強していた。時代は戦争に突入し、彼は兵役に取られ、勉強は中断した。そして多分、南方の暑い地域の悪条件の中で、ハンセン病に罹ってしまった。

日本に送り返され、療養所に強制収容された。私が彼に出会ったのはUさんが578歳の頃。私が音楽をやっている人間だと知って、彼はとても親しみを持ってくれて、いつも若い時の音楽の話をした。30年ほどのお付き合いの後、彼は亡くなった。お葬式のオルガンは私が弾かせていただいた。

ハンセン病の療養所では、葬儀は一切、所内の友人が取り仕切る。なぜなら彼らに家族はいないのだ。収容された時点で家族とは縁を断たれ、ほとんど外出もせず、ひっそりと所内で暮らす。2001年に国の強制収容は誤りだったという判決が出たが、時すでに遅し、帰る家も無く家族との連絡も取れない。病気は治癒しているが後遺症の不自由さを抱えていて、社会生活は無理になった人が多い。そんな訳で、葬儀が終わった後、持ち物の処分も友人がする事になっている。

「CDをもらって上げてください」と言われ、私が彼の音楽関係の一切を引き取ることになった。

ドミンゴのCDとレーザーディスクが沢山あった。歌うことのなかった楽譜、オペラの筋書きなども。彼の人生が、夢が、断たれた悔しさがにじみ出ていた。ドミンゴに憧れていた。今回の大震災後のコンサート、TVででも聴くことができたら、どんなに嬉しかっただろう。

Uさん、この名前も本名ではない。名前まで奪われて一生を終えたUさん。なんという悲劇だろう。しかし彼がドミンゴの歌声に慰めと癒しを求めることができたのは、せめてもの幸せだったと私は思いたい。そして音楽を続けていられる幸せを、私は胸に刻んでいる。

 

                            

 

 

 

 

演奏の蔭の力             

ラッターとウェッバーのレクイエム演奏会が、東北関東大地震の大変な状況下でしたが一応事故なく終わりました。災害とカンボジア、そして多くの犠牲者とレクイエムが重なって、深い思いを持って演奏出来たことはこの演奏会を印象深いものにしました。開催の決断に当たっては、単に“折角練習したし、この時期に当たったのだから”という安易な決定ではなく、代表を中心に大変な折衝や努力や細かい配慮があったことを知るにつけ、無事に終えることができたのは何と幸いだったかと思わずにはいられません。

多くの方から賛辞をいただき有難いことですが、私はここまで練習を積み上げてこられた後ろに、さまざまな力を感じています。もちろん合唱指揮の木村美音子先生はじめ諸先生方、発声指導の先生方にはお世話になりました。本番で纏めてくださった秋山和慶先生のお力はさすがです。そして、これらに勝るとも劣らない伴奏ピアノの先生方のご努力について私は書きたいと思うのです。

伴奏ピアノの曲はピアノのために書かれていません。オーケストラのいろいろな楽器を寄せ集めて10本の指でピアノで弾けるように、と言うか“ピアノで弾きなさい”と編曲されたものですから、それはそれはものすごく弾きにくいものです。ピアノ曲の難曲とは全く違ったもので、殊に今回の2曲は現代曲、並みの和音は少なくてイヤなピアノ曲になっています。伴奏ピアノのことで太田由美子先生と話をしたことがありますが、先生は「特に○○はイヤね」とおっしゃていました。私もそれは少し経験があるので分かりますが、今回の曲はその比ではなく、もっともっとイヤだったのではないでしょうか。それをピアニストの方たちは、スコアのオーケストラの音にそれぞれのフレーズを近づけ、“ここではどの楽器が前面に出るか”を多分CDなどを聴いてそこを強調し、かなりの工夫をしてオーケストラ伴奏で歌いやすいようにして下さっていました。私たちがオーケストラ伴奏にスンナリと入れたのは、そのお蔭が大きいと思っています。ピアニストの先生方、有難うございました。

そして反省会でも発言させていただいたことですが、ソリストの代わりに練習時にソロ部分を歌ってくださった4人の団員の方がたにお礼を申し上げます。ソロと絡みソロと受け渡しをする箇所の多い2曲を、ソリストが来られてもビックリしないで付いて行けました。このような蔭の力を頂いて演奏出来たことを、とても嬉しく思っています。